旅館やホテルでは、お客様アンケートを実施していても、その結果が現場全体で共有され、翌日のサービス改善につながっているケースは決して多くありません。
アンケートは集まるものの、集計に時間がかかる。報告書になる頃には情報が古くなっている。そして、改善活動は一部の管理者だけで完結してしまう。
そんな課題を解決するため、福井県あわら温泉のホテル八木では、AIによるアンケート分析・改善指示システムを導入しました。AIがお客様の声を毎朝分析し、その日の改善ポイントをスタッフ全員へ自動配信するこの仕組みは、現場の接客品質だけでなく、経営判断や設備投資、さらには温泉地全体のまちづくりにも活用されるようになっています。
今回は、ホテル八木 代表取締役 八木司氏に、導入の背景から現在までの変化について詳しく伺いました。
第1章 導入前、お客様の声はどこで止まっていたか
AIを導入する以前、ホテル八木ではどのようにお客様の声を集め、現場へ共有していたのでしょうか。紙のアンケートを集計し、社長自ら入力・分析を行うという運用は、多くの旅館・ホテルでも決して珍しいものではありません。しかし、その運用の中には、現場改善を難しくする構造的な課題がありました。
「毎日の集計は私自身の仕事でした」
以前、お客様の声は誰の手元に、どのくらいの頻度で、どんな形で届いていましたか。
紙のアンケートで集めていました。毎日の集計と手入力は私自身の仕事で、1週間分をまとめて印刷し、スタッフに配布していました。それが当館の情報の流れでした。
「届く頃には少し古い情報になっていました」
その声は現場のスタッフまで届いていましたか。
配布はしていましたが、正直なところ、きちんと読んでいるスタッフは多くありませんでした。1週間というタイムラグに加え、私の作業が遅れることもありましたので、現場に届く頃には少し古い情報になっていました。
「経営側だけが知っている」状態への歯がゆさ
「経営側だけが知っている」状態で、どんな歯がゆさがありましたか。
理解度のズレが一番の問題でした。毎日入力を続けている私には、お客様の感覚が自然と身についていきます。けれども現場のスタッフには、なぜその改善が必要なのかという背景が伝わっていません。一人でもスタッフが本当に理解してくれれば、改善の速度は格段に上がる。その手応えと歯がゆさを、同時に感じていた時期でした。朝礼ではお客様の声をベースに話してはいました。ただ、その根拠は1週間前の情報でした。
お客様の声を集めることはできていました。しかし、その声が現場全体の知識になり、毎日の行動へつながっていたかというと、答えは「No」だったと八木氏は振り返ります。
毎日アンケートを読み続ける経営者と、週に一度しか情報に触れないスタッフ。その情報格差は、改善スピードにも大きく影響していました。そんな状況を変えるきっかけとなったのが、AIでした。
第2章 「毎日・AIで・全員に」という決断
ホテル八木が導入を決断した理由は、「AIだから高度な分析ができる」ということだけではありませんでした。むしろ重要だったのは、「毎日」「全員へ」「人を介さず」情報が届くこと。その仕組みが、組織そのものを変える可能性を感じたと言います。
「面白そう。それが最初の印象でした」
最初に提案を聞いたときの率直な印象と、採用の決め手は。
シンプルに「面白そう」と思いました。決め手は、私の代わりに毎日配信されるという点です。毎朝社長の話をくどくど聞くのは、スタッフ側からも嫌でしょう。迷いはほとんどありませんでした。
「AIに接客を指図されたくない」という声はなかった
「耳の痛い声も翌朝には全員が読む」ことへの不安、現場の抵抗はありませんでしたか。
不安はほとんどありませんでした。現場からの抵抗も、特にありませんでした。「AIに接客を指図されたくない」という反応も出ていません。むしろ、AIのほうがすんなり入るのではないかと直感していました。
AIだからこそ、フラットに受け入れられる
AIが書くからこそ受け入れられた面はありますか。
当館のような小規模な組織では、人から人へ指示が伝わるとき、そこにどうしても個人的な感情が入ります。「社長に言われた」「あの人に言われた」となると、内容以前に人間関係の色がついて、素直に受け取りにくくなる。AIから届く指示には、その色がつきません。だからフラットに読める。組織が小さいほど、この効果は大きいと感じています
導入は想像以上にスムーズだった
とはいえ、運用が軌道に乗るまでに手こずったことはありませんでしたか。
大きな混乱はありませんでした。ただ、最初のうちは指示書の内容がどこか一般論に寄っていて、当館の言葉になるまでには少し時間がかかりました。アンケートの回収自体はもともと行っていたことですので、現場の手間が増えたという感覚はありません。むしろ私の入力作業がなくなった分、負担は軽くなりました。
AIを導入したことで、人の仕事が増えたわけではありません。これまで社長一人が抱えていた「集計し、読み解き、伝える」という業務がAIへ置き換わり、その結果として、毎日全員が同じ情報を共有できる環境が生まれました。そして、その変化は翌日の現場から少しずつ現れ始めます。
第3章 現場が変わった
AIによる毎朝の改善指示書は、単なるレポートではありません。そこには前日に寄せられたお客様の声が整理され、「今日、何を改善すべきか」が現場全員へ共有されます。情報を知るだけではなく、すぐに行動へ移せること。ホテル八木では、その積み重ねが現場の意識を大きく変えていきました。
実際の改善指示書 ①
前日に届いたお客様の声をもとに、AIが「今日対応したい改善ポイント」を整理します。
特徴的なのは、指摘の受け止め方まで言語化されていることです。「大きなクレームではなく、『もっと良くなる』という期待を込めた前向きなご指摘として受け止めています」──この一文があることで、耳の痛い内容も現場が受け取りやすくなります。
対応の指示は「本日中に」「特にご指摘のあったフロアを中心に」と具体的で、読んだその日に動ける粒度で書かれています。
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レストランスタッフの接客が変わった
指示書は翌日の現場で実際にどう機能しましたか。
とくにレストランスタッフの接客が良くなりました。客室の不備については、部屋番号と紐づいて上がってくるので、すぐに手を打てるようになりました。
朝礼は「報告の場」から「行動の場」へ
朝礼はどう変わりましたか。
その日のお客様情報はAIを使って共有していますので、無駄な時間はなくなりました。アンケートの中身については、スタッフ同士の雑談の中で自然と話題に上がっています。その自然な形で会話になるのが、私の理想です。
指示待ちではなく、自分から動くスタッフへ
スタッフが指示される前に自分で動くようになった変化はありますか。
スタッフがお客様をよく観察するようになりました。観察すれば、名指しで褒められることが増えます。褒められれば自信がつく。この循環だと思っています。褒められたスタッフは自発的になり、次はもっとこうしようという行動につながっていきます
AIが配信する指示書は、「誰かから注意される資料」ではありません。昨日のお客様の声を、今日のサービスへ反映するための共通言語です。だからこそ、スタッフ同士の会話にも自然とお客様の話題が増え、「どうすればもっと良くなるか」を考える文化が育っていきました。
厳しい指摘も、改善のための材料になる
厳しい指摘が載った朝は、どんな空気になりますか。
現場が受け止めて改善できる指摘については、それほど重くなりません。難しいのは、お金が伴う指摘です。この種の指摘についてスタッフから声が上がることはなく、経営側の判断が必要になります。正直、そんなことを言われてもすぐにはできない、と思うこともあります。それをクリアにできるかどうかが大事だと考えています。ただ、同じ声が日々積み上がることで優先順位は明らかになりますし、新規投資の判断材料としてかなり有効に活用できています。
「言っても変わらない」と思わせないこと
その「お金が伴う指摘」を、実際にはどう処理されていますか。
現場の努力では動かせない指摘というものがあります。設備の更新のように、お金の判断が要るものです。この種の声は、現場からは上がってきません。上げても仕方がないと分かっているからです。ですから経営側が拾いに行く必要があります。当館では、同じ指摘が何件積み上がっているかを見て、投資の優先順位を決めています。すぐに着手できないものについては、いつ判断するのかを現場に伝えるようにしています。
放置が一番よくない。言っても変わらないと学習されてしまうと、その後どんな指示書を配っても読まれなくなると思います
この言葉は、AI導入以上に重要なポイントかもしれません。AIは課題を見つけることはできます。しかし、その課題に向き合い、判断し、投資し、改善するのは経営者です。ホテル八木では、お客様の声を「読む」ことではなく、「経営判断につなげる」ことがAI活用の本質になっています。
部門間の関係も変わった
部門間(レストラン・フロント・清掃)の連携は変わりましたか。
解決の速度よりも、問題の本質にたどり着く思考プロセスが変わったと感じています。以前は「どの部署のミスか」を探す話になりがちだったところが、いまは「なぜそれが起きたのか」から入るようになりました。
「誰が悪いか」ではなく、「なぜ起きたのか」を考える。その視点の変化こそ、毎日お客様の声に向き合うことで生まれた組織文化なのかもしれません。
第4章 マネジメントと働き方の変化
AIが変えたのは、現場だけではありません。経営者自身の時間の使い方、考え方、そしてマネジメントのあり方も大きく変わりました。
作業時間が、思考の時間へ変わった
「声を読み、要点をまとめ、現場に伝える」仕事をAIに任せて、浮いた時間は何に使えるようになりましたか。
AIとの対話です。日々浮かんだ疑問を、その場でAIに投げています。業務改善、スタッフ育成の悩み、週次レポートから読み解く自館の現状分析。そして自館だけでなく、エリア全体のことも考えます。作業の時間が、思考の時間に変わりました。
AIによって削減されたのは、単なる作業時間ではありません。経営者が本来使うべき、「考える時間」が生まれたことこそが、大きな価値だったと言えるでしょう。
会議より、まず実行
会議や報告の在り方は変わりましたか。
もともと会議はほとんど行っていません。レポートを見て即実行です。レートコントロールやインスタグラムの投稿など、分析よりもアクションが先に立ちます。
情報を持つ人がいなくなった
マネージャーの役割は変わりましたか。
役割が変わったというより、マネージャーもスタッフも同じ指示書を見るようになったことで、情報の上下がなくなったという感覚に近いです。誰かが情報を握って伝えるのではなく、全員が同じものを同時に読んでいる。その状態になりました。
情報を共有する人がいる組織から、全員が同じ情報を持つ組織へ。ホテル八木では、AIは情報格差をなくす存在として機能しています。
数字にも表れた変化
数字に表れた変化はありますか。
売上と稼働に直結しています。稼働率とRevPARは、あわら温泉エリアの平均を上回る水準で推移しています。具体的な数値は、自館の集計が営業日ベース、エリア平均が暦ベースで比較の前提が揃っていないため伏せますが、社内で完結する指標として、次のような変化が出ています。
Survey Responses
月平均 約36件
↓月平均 約150件
| 指標 | 導入前 | 現在 |
|---|---|---|
| お客様アンケートの回答数 | 月平均 約36件 | 月平均 約150件 |
| 客室不備の指摘から対処までの日数 | 約7日 | 1〜2日 |
| 集計・入力にかかる社長自身の作業時間 | 週 約8時間 | 週 約1時間 |
| 名指しの称賛が含まれる回答 | — | 月 約5件 |
※回答数は、旧フォーム(2023年2月〜2026年5月)と新フォーム(2026年4月〜7月)の実データから算出した月平均です。切り替え直後で安定した現在は、月150件前後で推移しています。
※「同一内容の指摘の再発件数」は、現時点で集計データがないため掲載していません。
第5章 AIは「八木らしさ」を学び、組織文化を映すようになった
AIは導入すればすぐに完成するものではありません。ホテル八木でも、導入当初のAIは一般的な改善提案を返すことが多く、「ホテル八木らしい言葉」にはなっていなかったといいます。しかし、運用を重ねる中で、AIは単なる分析ツールではなく、ホテル八木の理念や価値観を反映する存在へと変化していきました。
AIに「八木らしさ」を教え込むプロセスとは
AIに「八木らしさ」を教え込むプロセスは。
クレドとミッションを、そのまま渡しました。裏を返せば、理念が明文化されていない宿では、この仕組みはうまく回らないということでもあります。当館では最終的に、クレドの理解度が評価に直結しています。日々の指示書が行動規範と紐づいて配信されることで、評価面談の場でも共通の物差しとして機能しています。
AIの文章も、ホテル八木らしく変わっていった
導入初期の指示書と今の指示書、何が変わりましたか。
トーンが八木らしくなりました。クレドやミッションを渡し、運用を重ねるうちに、当館の言葉づかいや価値観が指示書ににじむようになってきたと感じています。
実際の改善指示書 ②
「今日のアクション」には、部屋番号まで含めた具体的な指示が並びます。八木氏が語った「部屋番号と紐づいて上がってくる」とは、この状態のことです。
そして各アクションの末尾には、必ず行動規範が紐づけられています。「→ 行動規範2『無駄なく、心をこめて。』」。クレドを渡したことで、日々の指示が理念と接続されました。
末尾にはその日のメッセージとミッションが添えられます。汎用的なAIの出力ではなく、「八木らしい」文章になっていることが見て取れます。
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AIは万能ではありません。ホテル八木では、「AIに任せる」のではなく、「ホテル八木らしい判断ができるよう育てる」という姿勢で運用されています。その結果、毎朝配信される指示書は、単なる改善レポートではなく、ホテル八木の理念を現場へ届けるコミュニケーションツールへと進化していきました。
AIの分析が違うと感じることはあるのか
AIの分析に「それは違う」と感じたことは。
あります。その場合は、現場に「これは無視していい」と伝えています。判断の主体は、あくまで人間の側にあると考えています。
それはどのくらいの頻度で、どんな種類の誤りですか。
頻度としては多くありません。月に2〜3件ほどだと思います。よくあるのは、一件だけの特殊なご意見を、あたかも全体の傾向であるかのように書いてくるケースです。あとは、当館の事情を踏まえれば現実的でない打ち手が並ぶこともあります。そうしたときは現場に無視するよう伝えています。
AIを信じるのではなく、AIを使いこなす
AIは膨大な情報を整理し、新しい気づきを与えてくれます。一方で、その提案をそのまま実行するかどうかは、人間が判断しなければなりません。ホテル八木では、この役割分担を最初から明確にしています。AIは考える材料を提供する存在であり、経営判断そのものを代替する存在ではありません。
今のAIとの役割分担を一言で表すと。
AIは気づきとヒラメキをくれる。人間は、それにいかに気づいて実行できるか。そう考えています
ホテル八木がAIを導入して得た最大の成果は、「AIが考える旅館」になったことではありません。AIが気づきを示し、人が判断し、人が実行する。その役割分担が明確になったことで、AIは現場にも経営にも自然に溶け込み、組織の一部として機能するようになりました。そして、この仕組みは一館だけにとどまらず、やがて温泉地全体へと広がっていきます。
第6章 旅館一館から、温泉地全体へ
ホテル八木で成果を上げたこの取り組みは、やがて一旅館の枠を超え、あわら温泉全体の取り組みへと発展していきました。競合同士である旅館が、お客様の声を共有する。一般的には難しいと思われるこの取り組みは、どのように実現したのでしょうか。
最初に出たのは「データを見せたくない」という声だった
組合での議論の際、各施設からはどんな期待や懸念の声が出ましたか。
各施設の満足度や不満が明らかになるのは避けてほしい、という懸念の声をいただきました。
完璧を目指さず、「全員が参加できる形」から始めた
競合同士でデータを共有することへの抵抗感は、実際のところありましたか。
私自身は、お客様の満足度なのだからオープンにしても問題ないと思っています。ただ合意形成を優先し、満足度部分を省いたレポートを作成して共有する形で運用を始めました。全員が乗れる形から始めたことが、結果的に継続の条件になったと感じています。現在、アンケートの共有先は4者です。旅館組合のメンバー、市の観光振興課、観光協会、そしてまちづくりビジョン推進委員会。前の3者には満足度を伏せた形で共有し、まちづくりビジョン推進委員会にはすべてのデータを開示していく方針で、組合の合意も得ています。このアンケートが、まちづくりの基盤になっていくと考えているからです。
宿同士の会話も変わり始めた
組合の会合や宿同士の会話は変わりましたか。
あわら温泉全体で話すことが多くなったと感じています。会合の場というより、日常的な会話の中でエリア全体の話題が出るようになりました。他の宿の評価やお客様の声を目にすることも、刺激や学びになっていると感じます。少なくとも私は、毎月レポートを分析するのが楽しみになっています。
一館での成功が、エリア全体を動かした
ご自身の宿での手応えは、エリア展開を後押しする材料になりましたか。
なりました。当館が導入第1号で、そこで確かな手応えがあったからこそ、組合でエリア共通アンケートの導入を提案でき、可決にもつながったと考えています。一館での実践がなければ、エリア全体に広げる説得力は持てなかったと思います。
ホテル八木で始まったAI活用は、一施設の業務改善に留まるものではありませんでした。お客様の声を地域全体で共有し、行政や観光協会とも連携しながら、温泉地全体の価値向上へつなげる取り組みへと発展しています。
AIは、旅館だけでなく「まち」を変えるインフラになる
お客様の声を蓄積し、分析し、改善へつなげる仕組みは、やがて温泉地全体の課題を考えるための基盤として活用され始めています。八木氏は、「満足度を測るためのアンケート」ではなく、「地域の課題を探し続ける仕組み」であることに、このシステムの本当の価値があると語ります。
「宿の外に課題がある」という単純な話ではない
「宿の中は高評価、宿の外に課題」という構造は、エリアの意識を変えましたか。
正直なところ、そこは感じていません。というのも、もっとお客様を見たほうがいいというのが各施設の実感ではないかと思うからです。どれだけ整備しても、ゆっくりしに来ているお客様を無理やり外に出すというのは違うと思います。むしろ、いつの時間帯に何があれば散策するのか。それを紐解いていくために、このアンケートが活きてくると感じています。
「城崎温泉のように」という発想では続かない
「城崎温泉のような町並みがあれば」という声をどう受け止めていますか。
あわら温泉では、この街並みというワードは少し難しいと考えています。大型施設が湯のまち広場から離れて点在しているからです。仮に中心街を整備しても、この意見は消えないように思います。すでに芦湯もあります。あわらの良さをどう設計し、整備するかを議論したいと考えています。あわらの良さは、まずお湯そのものです。アンケートでも評価は高い。あとは、そのお湯の文脈をどう伝えるか。さらに、価格帯も客層もバリエーションが豊富なこと。そして旅館同士の仲が良いこと。私が実験している三薬師ガイドや、オールインクルーシブに組み込んだ金津創作の森での体験のように、各施設が薦める場所をたくさんつないでいけるとよいと思っています。守るべき価値は、あわらを愛すること。旅館組合のキャッチコピーは「OUR LOVE(アワーラブ)」です。
「賑わい」か「静けさ」かではない
賑わいづくりと静けさの両立について。
お客様はゆっくりしに来ている。その前提を崩さないことが大切だと考えています。賑わいをつくるかどうかという二択ではなく、どの時間帯に何があれば自然と歩きたくなるのか。アンケートで解いていくべきはそこだと思っています。
行政との対話も変わった
行政との対話は変わりましたか。
明らかに変わりました。具体的には、青年部の例会に観光課と観光協会が出席し、誘客につながる具体策を議論するようになりました。その議論から、旅行情報誌にあわら温泉の特集が掲載されることも決まりました。これは非常に良いことだと思っています。
「課題を探し続ける」ことが地域を強くする
この仕組みは、まちづくりの意思決定インフラになり得ますか。5年後、あわら温泉をどう変えていてほしいですか。
インフラになると確信しています。5年後、この仕組みはさらなるバージョンアップを遂げ、あわらの課題を5年後も探し続けていることを願います。課題解決に終わりはありません。つねに課題を探し続ける姿勢こそが、強みになるはずです。
第7章 「課題を探す仕組み」が、経営を変える
AIという言葉を聞くと、「自動化」や「効率化」を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、八木氏が語る価値は少し異なります。AIは答えを出すためではなく、「まだ気づいていない課題」を見つけるために存在するという考え方です。
経営判断のインフラになった
一施設の日次改善と、エリアの月次戦略・まちづくり。同じデータ基盤から両方が出てくることの意味は。
なくてはならない存在であり、経営判断のインフラだと捉えています。
満足度調査ではなく、課題発見の仕組み
未充足需要の試算は実感と合いますか。この仕組みの価値を一言で表すとしたら。
試算の規模感については、大きな違和感はありません。それだけの潜在需要が眠っているというのは、肌感覚とも一致します。ただ、この数字を取りこぼした売上として、すべて取りに行くべきだとは考えていません。お客様はゆっくりしに来ています。未充足のニーズの中から、静けさを壊さずに応えられるものを見極めていく。その優先順位づけにこそ、この試算は活きると考えています。
価値を一言で表すなら、課題を探すための仕組みです。満足度を測るための調査ではありません。設問設計を柔軟に変更できる点もありがたく、結果を見ながら、「この質問を追加したらどうなるか」と考えます。そうしたアイデアが次々と湧いてきます
ホテル八木では、AIは効率化ツールではありません。現場改善、設備投資、スタッフ育成、そして地域戦略まで。すべての判断の起点となる「課題を見つける仕組み」として活用されています。
最終章 AIを導入する前に、本当に必要なもの
ここまでお話を伺ってきて印象的だったのは、八木氏がAIを「魔法の道具」として語らなかったことです。AIは、お客様の声を整理し、課題を見つけ、改善のヒントを提示してくれます。しかし、その先にある「判断」と「実行」は、人が担わなければならない。そして、その判断の基準となるのは、旅館が何を大切にするのかという理念です。
だからこそ、最後に「どんな旅館なら、この仕組みを活かせると思いますか」と伺いました。
「理念を言葉にできている宿」に薦めたい
どんな宿・どんな温泉地に薦めたいですか。うまくいく組織といかない組織の違いは。
薦めたいのは、理念を言葉にできている宿です。規模の大小は問いません。温泉地でいえば、旅館同士が競合でありながら手を組める、そういう関係のある地域です。
まず宿について。分かれ目は規模でも予算でもなく、理念が言語化されているかどうかだと考えています。当館がAIに渡したのは、クレドとミッションでした。渡すものがある組織なら、指示書は理念を運ぶ道具になります。渡すものがない組織では、ただの業務連絡にしかなりません。
もうひとつは、実行の速さです。当館では会議をほとんど行いません。レポートを見て即実行します。分析することが目的になってしまう組織では、毎朝の指示書は読み物で終わってしまうと思います。
そして経営側の覚悟です。現場の努力で直せる指摘と、お金の判断が必要な指摘は別物です。後者について現場から声は上がりません。経営側がそれを引き取らずに放置すれば、現場は「言っても変わらない」と学習してしまいます。指示書を配ることより、その処理を続けられるかどうかのほうが難しいと思います。
温泉地について言えば、条件はひとつだと思います。旅館同士の仲が良いことです。競合同士でデータを共有するのですから、そこに信頼がなければ始まりません。あわら温泉でも、共通アンケートの議論では懸念の声が出ました。それでも、満足度部分を省いた形で全員が乗れるところから始めました。完璧な合意を待つのではなく、省いてでも始める。その判断ができる地域なら回っていくと思います。
逆に難しいのは、他所の成功事例をそのまま再現しようとする地域ではないでしょうか。城崎温泉のような町並みを、という声はよく聞きます。しかし宿の立地も客層も違えば、同じ絵姿にはなりません。データは、自分たちの現在地を知るための道具です。他所と比べるための道具として使うと、続かないと思います。
理念は、最初から完成していなくてもいい
では、理念がまだ言葉になっていない宿は、どこから始めればよいでしょうか。
立派なものを最初に作る必要はありません。当館のクレドも、はじめから完成していたわけではないのです。お客様の声を毎日読み続けていると、自分たちが何を大事にしているのかが、逆に見えてきます。ですから順番は逆でも構わない。まず配信を始めて、返ってくる声を見ながら言葉を作っていく。そういう入り方もあるはずです
おわりに
ホテル八木が取り組んでいるのは、「AIでアンケートを分析すること」ではありません。お客様の声を毎日読み、現場全員で共有し、改善を積み重ねる。さらに、その積み重ねを経営判断や設備投資、地域全体の観光戦略へとつなげていく。AIは、その流れを支える基盤として機能しています。
八木氏へのインタビューを通じて強く感じたのは、AIが組織を変えるのではなく、「お客様の声を大切にする文化」がAIによって加速されているということでした。人が気づけなかった課題を見つけ、人が判断し、人が実行する。その繰り返しが、サービスを磨き、組織を育て、地域全体を変えていく。
ホテル八木の取り組みは、AI活用の一つの成功事例であると同時に、「お客様の声をどう未来へつなげるか」という、サービス業全体への問いかけでもあります。
開発の背景 ── 設計した側の視点から
ここからは、この仕組みを設計・提供した株式会社basicmathの視点から、開発の背景と設計の考え方、そしてこの取り組みから生まれた製品についてお伝えします。
当社とホテル八木、そしてあわら温泉エリアとの関わりは、観光庁の実証事業をきっかけに始まりました。以来3年間にわたり、マーケティング、DX、AI活用の現場に伴走してきました。
2026年度の施策を検討する中でご提案したのが、今回の仕組みです。
お客様のフィードバックを取得し、AIが分析し、改善のための情報として毎朝すべての従業員へ届ける。この一連の流れを、日々の業務の中で継続的に回し続ける仕組みでした。
導入すること自体が、目的になってはいけない
テクノロジーの導入において、当社が最も重視していることがあります。それは、テクノロジーを導入すること自体を目的にしないことです。
日々の営業活動の中に、どのような課題が存在するのか。どのような改善が可能なのか。そして、その改善をどうすれば顧客体験や収益の向上につなげられるのか。
テクノロジーは、その目的を達成するための手段にすぎません。当社は常に、この順序を意識しています。
顧客の声は、事業を改善するための重要な情報である
今回の提案にあたって着目したのは、宿泊施設におけるお客様アンケートの活用でした。
アンケートを実施していても、十分な回答数が得られなかったり、集計や共有に時間がかかったり、集めた声を日々の改善までつなげられていないケースがあります。
しかし、宿泊業に限らず、顧客の声は事業を改善するための重要な情報だと当社は考えています。課題解決も、収益向上も、サービス改善も、そのヒントは顧客の声の中にあります。
声を集め、分析し、取り入れ、改善する。このサイクルを継続することが、将来の提供価値をつくり、長く選ばれる宿や地域につながっていくと考えています。
Our Perspective
毎日何十人、何百人。
年間では、さらに多くのお客様が訪れる。
その声を十分に集められていないことによる
機会損失は、決して小さくない。
こうした考え方をもとに、今回の仕組みを設計しました。
設計で重視した、5つのこと
01 設問は、必要最小限に
質問数が多く、途中で離脱してしまうようなアンケートでは、そもそも十分な回答が集まりません。
聞きたいことをすべて並べるのではなく、本当に必要な設問だけに絞り込むことから設計を始めました。
02 フォームは、見やすく・使いやすく
入力欄が小さい。選択肢が押しにくい。回答に時間がかかる。こうした小さな使いにくさの積み重ねが、回答を妨げる要因になります。
回答者ができるだけストレスなく、短時間で答えきれることを設計の前提としました。
03 「集めるためのアクション」まで設計する
そして、今回特に重視したのが、フォームそのものだけではなく、お客様に回答していただくまでの行動を設計することでした。
部屋の片隅にQRコードを置くだけでは、存在に気づいてもらえないかもしれません。気づいたとしても、回答するきっかけがなければ、そのまま終わってしまいます。
今回の取り組みでは専用のフライヤーを作成し、チェックイン時に手渡しと声掛けを行っていただきました。さらに、回答後にその場で参加できる抽選プレゼントを用意し、滞在中のスキマ時間に自然と回答へ向かえる導線をつくりました。
使いやすいフォームを用意するだけではなく、どうすれば実際に声を集められるのかまで含めて設計する。アンケート回答数が月平均約36件から約150件へ増加した背景には、こうした取り組みがあります。
04 設問を、変え続けられること
アンケートは、一度つくって終わりではありません。
状況や季節によって、知りたいことは変化します。実際に集まった回答を見て、新たに聞きたいことが生まれることもあります。
そのため今回の仕組みでは、運用を続けながら設問を追加・変更でき、過去に集めた回答の分析にも影響を与えないことを重視しました。
使いながら問いを変え続けられること。それも、顧客の声を継続的な改善につなげるための重要な条件だと考えています。
05 分析も、調整し続けられること
分析の内容についても、八木氏と協議を重ねながら調整と最適化を進めました。
重要なのは、一度構築して終わりにしないことです。
実際の結果を見ながら分析方法を調整し、その施設にとって本当に必要な情報へ近づけていく。そして、その変更に大きな時間やコストをかけない。現場で使い続けられる仕組みにするために、こうした柔軟性を重視しています。
そして、ソフトウェアへ ── mitsumonoAI Forms(仮称)
当社では、ホテル八木をはじめとする現場での実践をもとに、この仕組みのソフトウェア化を進めています。2026年秋にリリース予定の「mitsumonoAI Forms」(仮称)です。
ホテル八木で実践された、お客様の声を日々の改善につなげる仕組みを、より多くの事業者が簡単に始められるようにする。そのためのアンケート収集・分析・業務改善プラットフォームとして開発しています。
「集める」から、「改善する」まで
一般的なフォームツールでは、アンケートを「作る」「集める」ことが中心です。そこに分析機能を備えたサービスも増えてきました。
しかし、分析結果が出ただけでは、必ずしも現場は変わりません。
何が課題なのか。何を改善するのか。そして、その改善が実際に行われたのか。顧客の声を事業改善につなげるためには、分析した後のアクションまでが重要です。
mitsumonoAI Formsでは、
集める → 分析する → タスク化する → 追跡する → 改善する
という一連のサイクルを、ひとつの仕組みの中でつなぐことを目指しています。
AIが気づきを示し、人が判断する
ホテル八木での運用から得られた、もうひとつの重要な考え方があります。それは、AIにすべての判断を任せないことです。
AIは、お客様の声を読み解き、人が見落としていた傾向や課題に気づくための材料を提示することができます。
しかし、それを本当に実行するのか。何を優先するのか。どこまで投資するのか。最後に判断するのは、人です。
ホテル八木の八木氏が語った、この言葉があります。
AIは気づきとヒラメキをくれる。人間は、それにいかに気づいて実行できるか
この考え方は、mitsumonoAI Formsの設計思想にもつながっています。AIが人に代わって経営や現場を動かすのではなく、人がより早く気づき、判断し、行動するためにAIを使う。mitsumonoAI Formsは、そのための仕組みを目指しています。
The Cycle
集める → 分析する → タスク化する
→ 追跡する → 改善する。
顧客の声を集めることを目的にせず、
その先にある業務改善までを
ひとつのサイクルとしてつなげる。
ホテル八木で始まったこの取り組みは、現在ではあわら温泉全体へと広がり、旅館・観光協会・行政が共通のデータを活用しながら、地域の価値向上に取り組む仕組みへと発展しています。
その現場で得られた知見と設計思想を、mitsumonoAI Formsとして、より多くの事業者へ届けていきます。
AIは気づきとヒラメキをくれる。人間は、それにいかに気づいて実行できるか。
毎朝届く指示書は、理念を現場へ運ぶコミュニケーションツールへ。
一館の改善から、温泉地全体のまちづくりへ──
お客様の声を未来につなげる仕組みは、いまも進化を続けている。